28 死んだ名前



それから飛ぶように時は過ぎ行き、結婚式が明日に迫った夜―――

ココはついに脱出を決意しそっと部屋を出た。
今宵は雲が多く、月はほとんど見えない。またとない脱出の好機だ。
ココは頭に叩き込んだ地図を思い描きながら城内を進み、中庭へと出た。
そびえ立つ城壁のそばに、それに寄り添う一本の木がある。これを登れば城壁を越えられるはず。
幼いころの木登りを思い出しながらよじ登り、ようやく枝に足をかける。

(あとは、この枝を伝っていけば城壁の上に行ける……!)

ココが細い枝の上に足を踏み出したときだった。

「―――誰だ。そこで何をしている」

鋭い声が夜陰を裂いた。
動揺して重心を傾けた途端、枝が音をたてて折れる。そして次の瞬間、ココは宙に放り出された。

(落ちる―――!)

地面に叩きつけられることを想像し、ココは身を固くした。
だが衝撃が訪れることはなく、かわりに逞しい腕に抱き留められた。

「あなたは―――!」

闇の中でも煌々と輝く柘榴石のような紅い瞳が、ココを見つめていた。

「ガーネット……!どうしてここに―――」

表情を変えず、ガーネットはココを降ろした。

「相変わらず、おまえは無謀だな」

「失礼ね!今のはちょっと失敗しただけなの!!」

頬を膨らませて怒った。

「それと、おまえ、じゃなくて名前で呼んでよ。私はあなたのこと、ちゃんと名前で呼んでるんだから」

「……名前?」

無表情ながら不思議そうな様子が伝わってくる。

「そっか、言いそびれてたんだっけ。私はココ・メルフィードっていうの。今はシェリー・ロズ・ルドナーだけど、ココって呼んで。……他の人はみんなシェリーって呼ぶから」

言葉の最後は声が震えてうまく言えなかったが、ガーネットにはしっかり伝わっていた。

「……分かった、ココ」

すると、ぱっとココの顔が明るくなり――一粒の涙がこぼれた。

「―――ッ……!」

たちまち、涙がとまらなくなってしまう。

「……どうして、泣く?」

ガーネットの問いに、ココは泣きじゃくりながら答えた。

「だって……久しぶりに呼ばれたんだもの……。私の…本当の名前……!」

それは、今は死んでしまった名前。けれど、母がココのためだけに与えてくれた唯一のものだ。

(よかった……。私はまだ“ココ”なんだ……!)

後から後から溢れでてくる涙はぬぐいきれず、ココは両手で顔をおおった。
すると、ガーネットにぎこちない手つきでそっと頭を撫でられた。
それはまるで幼子のような扱いだったが、ココは安心した。

やがてココが落ち着くと、ガーネットは言った。

「――そろそろ部屋に戻ったほうがいい。明日は結婚式なのだろう」

「……それは『悪夢の塔』からの釈放とひきかえにさせられるの。それに、私にはジークがいるもの」

「ジーク……?」

やはり無表情のまま、ガーネットが尋ねる。

「私の婚約者よ。戦争を終わらせる方法を探して、旅に出てるの」

ガーネットを見上げたココの瞳に、雲間をから空に浮かぶ三日月が映る。

「……私はもう一度彼に会いたいの。なんとしても。だからお願い。私を逃がして……ガーネット!」

――ガーネット……

ガーネットの脳裏を何かがかすった。それと同時に強い眩暈が彼を襲う。

――ガーネット……紅い瞳をもつ私の愛しい―――

ノイズの入り交じった女の声だ。それもどこかで聞き覚えのある声―――

(こ…の声は……)

眩暈が一層ひどくなり、ガーネットは崩れ落ちた。

「ガーネット!どうしたの大丈夫!?」

突然膝をついたガーネットに驚き、ココがしゃがもうとしたとき。

「シェリー様――!どちらにいらっしゃるのですか――?」

ココを呼ぶ女官達の声が聞こえてきた。それもかなりの数だ。

「私がいないのがばれたんだわ……!」

「……早く戻れ…。今の俺ではおまえを……守ってやれな…い……っ」

「でも……!」

ガーネットを見て躊躇するココにガーネットが言い聞かせる。

「俺は大丈夫だ……。だから、早く行け。このままここにいては…脱出しようとしていたことがばれ…る……!」

「……うん……ごめんね」ガーネットに背中を押され、ココは城へと走った。



――あなたの名前は、あなたのその綺麗な瞳からつけたのよ。
あなたの瞳はまるで赤く輝く石榴石―――ガーネットのようだから……


美しい黒髪をなびかせ、女が語りかけてくる。
けれど、顔はぼやけてしまって分からない。

(―――いつもそうだ。俺の記憶はまるで、霧がかかったみたいにぼんやりとしか思い出せない……)

どうしてはっきりと思い出せないのだろうか。
自分が何者なのかすらわからない―――


――ガーネット!

はっきりと思い出せるのはたった一人その名を呼ぶ少女だけ。
霧がかったガーネットの記憶の中で、彼女だけが太陽のように輝いているのだ。

「―――ココ……」

ガーネットが少女の名を呼ぶと、ガシャン……とどこかで錠の落ちる音がした。