41 刻印の絆V
その時、ギルストは奇妙な感覚に陥っていた。
頭の中がまるで霧がかかったようにはっきりしない。何も考えられない。ただ地面に倒れ伏した彼女を、溢れ続けている真紅の血を眺めていた。
けれど錯乱しながらも彼女に駆け寄るココと、再び剣を振り下ろす父の姿を目にした途端、意識が覚醒した。それと同時に込み上げてくる怒りと悲しみのままに彼は動いた。
そして―――
白刃がルドナー卿の胸を貫いた。噴き出した鮮血が顔を濡らした時、ギルストははじめて後悔した。
父を手にかけたことにではない。最愛の人を守れなかったことにだ。
「―――ギルスト…貴様……っ!」
がくり、と膝をついた父をギルストは冷めた目で見下ろした。
「これは報いです。姉上と私……そしてシェリーを長きにわたって苦しめたことへの。―――子殺しの貴方に相応しい死に様だ」
「……ならば親殺しの貴様は私から受け継いだその呪いに殺されるだろうな」
くくく……と狂った笑みを浮かべルドナー卿がココに向き直る。
「シェリーお前もだ。たとえどこに行こうとこの呪いから逃げおおせることなどできはしない。……結局お前の幸せなどどこにもないのだ」
「―――!」
身を固くしたココを嘲笑うと同時に音をたてて口から血がこぼれる。
それでも彼は冷笑をやめなかった。もはや執念に等しいほどに。
「せいぜい明日をも知れぬ命に怯え暮らすがいい!私はそれをあの世から嘲笑うとしよう―――」
―――それが、人の上に立つことを何より望んだ男の最後の足掻きだった。
ガーネットが残っていた兵士を片付け歩み寄ってきたのとシャルロットが身じろぎしたのはほとんど同時だった。
「お姉様……!」
ココの声には歓喜と安堵入り交じっていた。
だが背中の出血は止まらず弱々しく開けられた目は今にも閉じられそうだ。
それでも彼女は妹に微笑んだ。
「よかった……怪我はないみたいね……。最後の最後に守れてよかった……」
「お姉様!」
そんなこと言わないで、と首をふるココの手を握る。
「ごめんなさい、私が実の姉だと黙ってて……。できれば貴女には知ってほしくなかったの……」
「え…どうして……?」
「前にも言ったでしょう?ルドナー家はもはや毒でしかないと。私欲のために恐ろしい計画を企てたあのお父様の娘だなんて、繊細で純真な貴女には知ってほしくなかったの。この汚れた一族に染まってほしくなかったから」
「じゃあ城に行く前の夜、冷たくしたのは―――」
「ええ、そうよ……。ルドナー家の醜さを知られてしまったなら、いっそ嫌悪されたほうがいい。自分を裏切った相手に優しくされるのはかえって酷でしょう……?」
ココはじん、と胸が熱くなるのを感じた。
この人は、それほどまでに自分のことを考えてくれていたのだ。できるだけ傷つかないように、そっと守ってくれていた。
お姉様―――)
けれど彼女の命は尽きかけていた。握った手からは徐々に熱が失われ、全身から血の気が失せていく。
「やだ……行かないでお姉様!せっかく仲直りしたのに、こんな……っ!」
「―――ココ」
「…えっ……!?」
初めてその名で呼ばれた。
驚くココの頬にシャルロットはもう片方の腕で触れた。
「……さっき、殿下が呼んでらしたから。ねえ、教えてちょうだい。貴女の本当の名前を」
頭のどこか片隅で、言ってはいけない、と止める声がした。
(なんとなく分かる……。これを言ったら、きっと―――)
それでも、自分を見つめるあの優しい微笑みに応えなくては。
「……ココ。ココ・メルフィード……」
するとシャルロットは咲き誇る花のように微笑んだ。
「そう…それが貴女の名前なのね。貴女にぴったりの可愛くて素敵な名前だわ。ココ・メルフィード。わたくしの、たった一人の妹―――」
「お姉様っ!」
急速に光を失う瞳で傍らのギルストを見る。
(ギルスト……)
彼はただ静かに静かにこちらをを見つめていた。だがシャルロットは彼が今にもこぼれそうな涙を必死にこらえていていることに気付いていた。
(変わらないわね、あの頃から……)
本当は自分よりずっと心優しいのに、それを押し隠し続けている人。そうさせたのはシャルロットと父ルドナー卿だ。彼はシャルロットの命と引き換えに父に忠誠を誓ったのだ。
(そういえばあの時から、一度も見ていない。あぁ、それだけが心残りね……)
目を閉じる寸前、シャルロットたった一言告げた。
「―――もう一度……。もう一度だけ、貴方の笑った顔が見たかっ…た……」
支えを失った腕が落ちる。
「いやぁぁっ―――!」
動かなくなった姉を抱きしめ、ココは泣き叫んだ。
彼女の腕の中で、シャルロットはただ安らかな微笑みを浮かべていた。
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